11.21

写真とは、優しい平等であり、暴力である。

 その一瞬しか撮れ得ない、前の一刻も後の一刻も分からない。そんな凝固された時間点だけが残され、被写体の意思を無視し、世界そのものも断片化される。しかし手に入れて欲しいモノを手に入る時には、生き物だとしても意識の中にそれを物化にしなければならない。カメラに撮られる万物が、無差別に撮られ、平面的な静止空間に囚われ、昔ある意味で女性が子宮だけで妊娠工具として認識されているように、全てが形しか存在し得なくなる。しかしそれらは永遠に手に入れたままにはならない。そこから残念な哀しみの美学が生まれ、自然なものも人工的なものも創られる。売春業がなぜ俗世に嫌がられてしまっているのかというと、そこには最も直接で赤裸々にある種の真実(本当の真実が果たしてあるかどうかというのは別の問題だと思います、「神が死んだ」のだから。)を見せているのであるからだ。その率直さが大胆なまで恐ろしいことである。「われわれは、まぎれもなく性器を行使する存在であり、それを虚構化することは困難である。」蓮實重彥がこう言っている。性から快感、痛み、愛情、命、...人間にとっては自らと人間社会の構成の核に近いものに関与している。故のない嫌悪は多くの場合には、多分自己欺瞞に至るまで故を解釈したくない気持ちもあるかもしれない。自分の中にある自分が否定している有る部分にとても似てるからだ。愛憎とは本質的に一緒なものだと、誰かさんから聞いたことがある。そのため、嫌がっているあるものにこんな気持ちを持っているのを認可することがとても難しく感じることがあると思う。

 そして売春業の規制によっては、特定の場所しか会えない、特定の時間しか会えない、「私」と「あなた」しか存在していない、繰り返しているメカニズムの隙間に造られて生まれ出した、他の世界と繋がりのない、「私達」だけのための世界だ。だからと言い、「私」には、「あなた」との出来事を、覚えるかどうか、どんな形で記憶に残すのか、この出来事を物語にするのも、そんな選択権と編集権を完全に把握してる。「あなた」が、幻を創りつつあるからだ。

 変わった意味で、人間世界に起ってるあらゆる出来事や既存の体制が、売春に類似している。体と金の交換システムから、ただの仕事して給料をもらう社会人も、大人しく親から育成される子女も、信頼関係という名で相手の感情を確信しながら感情のやりとりをしている友人同士も恋人同士も何々同士も、少しリープしていわゆる運の上がり下がりもそうかもしれない。ある意味で商品社会のメカニズムの基礎にすぎないと思います。(「商品」と述べているのですが、「お金」というものの性質から考えてみると、特にデジタル時代に入ったから、すべての人類社会の交換行為の数値化にされたものだと思います。そこから、ここに示したいのは、商品もただの牛乳や卵のようなものだけではなく、事象です。)意識は、単なる独立な物ではなく、いつも何々についての意識だと言われ、我々は何かを否定するとき、またそのもの本体は一体どういうものなのかという還元に振り返らなければならない。ミュンヒハウゼンのトリランマのようなことかもしれません。

 しかし、思想の発生の機能に基づいて、私にはほんとに選択権を持ってるのか。確かに人間として、絶対的な自由であることが判ったが、私の形成する過程によって、私ははたしてずっと自分の意思のままでもないと気がする。ゴダールが、僕がただ「ゴダール」という役割を演じているんだけだと言っている。そこから、現実と夢、生活と芸術、二つの世界の境界線が曖昧模糊にされ、正気と狂気も明瞭に判るようなものじゃないだろうか。全てが全てである。その同時に、全てが全てでもない。

 ある意味で、いわゆる実在する現実世界というのも、比喩だらけに築き上げられたものかもしれない。現象学では意識というのはいつも何かについての意識だと言い、その過程に関しては必ず誤差が発生すると思ってる。理論そのものも限りなく理想化されたモデルだと考えている。話し合って、理解し合う。それも理想でもないだろうか。「あなたの緑の眼はぼくよりさきにそれを見た」これは、ゴダールからデュラスへの手紙の一通に書かれている言葉である。人間同士だとしても、いつだっても、同じようなことを見ても、全く同じもの見えるのはありえないかもしれない。しかし、遠藤周作が、エロスは哀しいと感じたりしてるとは、多分限りなく寄り添って近付く。

 痛みという概念が、此の二つの作品の中に、繰り返して現れてくると感じられる。

 ドストエフスキーがこんなことを言っている。

「人生は苦痛であり恐怖である。だから人間は不幸なのだ。だが今では人間は人生を愛している。それは苦痛と恐怖を愛するからだ。」

 この、自己憐憫に近い、無能や不安や虚無の海の中で、溺水しないように、自分が頑張ってると慰めになる。勘違いかもしれないが、アジア文化圏には、最高の理想を実現するため、苦痛を我慢しなければならない。アジアだけではなく、二チェも、自我を拷問にかけることが美徳だとある短編エッセイに言及した。キリスト教ギリシア神話にも似たような概念がよくあると気がします。幸福になるために、わざと不幸に陥る。それは多分、ロシア・フォルマリズムでは、言葉の正と反が同時に生まれるように、不幸がなければ、幸福も存在し得ないだろうか。